野菜・居酒屋放浪記与論島編その3・・・・薬膳とは

2011年9月17日 7:16

薬膳を看板に出している飲食店を見かける。


本物は少ない。薬膳の定義はあいまいで、食材に漢方でも使用されるものを盛り込んだだけで「薬膳」としたり、地産地消を薬膳と名乗っている場合もある。薬膳に走るあまりカロリーや脂質過多になる場合も・・・。

それはそうと食事療法の絶対的基本は毎日再現できる、すなわち日常食かどうか、である。1回やそこら薬膳を食べたからといって身体はどう変わろうか?


そうなると食環境ということになる。与論島の薬膳、それは日常食として再現できる土地・自然環境がある。なにしろ島に自生している草花がファイトケミカルたっぷりの野草あるいは薬草なのだ。

ところで薬草と野菜の違いは?含まれている成分の内容や含量による。そしてそれが美味しく食事として楽しめるかどうかだ。

薬は効能もあるが有害事例(副作用)がある。しかも苦かったり渋かったり硬かったりして美味しいわけではない。

野菜は味と形を重視されて改良された。不自然に実が大きすぎて支柱なしでは真っ直ぐ立てないトマト、自生などできない葉野菜。農薬や肥料がないと育たない。

その薬草と野菜の中間の食材を毎日食べるのが真の薬膳。与論島の山悦子先生の薬膳生活は40年にも及ぶ。

よく思うのはおおやけに実績とか研究を認めるのは「○○学会」や権威ある科学雑誌が中心となる。しかし認めるのが「人々」となるととたんに「民間療法」とされるのは残念でしかたない。しゃべりが上手とか文章が上手とか、そういった事だけで優秀かどうかを判断されることも多々あるのが実情。山先生は言葉はゆっくり穏やかだが、見抜いている。この人間はどんな人か?察知している。



それはそうと、山先生のお庭(畑は別にある)にはさまざまな薬草がある。えーっこれが?とか意外ではあるが、食べられる、となると見方も変わってくる。なにせ田舎育ちの私、食べられる、と聞くと、とりあえず口にしてみた。せんぶり、とか、げんのしょうこ、などは今でも味が思い浮かばれるし・・。



これは前立腺に・・というと、連れの若い衆が「おれはまだ大丈夫ですよ」と声を上げたが、「そういっていられるのもあと10年くらいかもよー」と返す。そうよ、人生の半分は老化と心得よ。



薬草の成分を液体抽出しているお部屋。すごーく良い香りが漂う。アロマ・・。葉を天日乾燥させる。電気などのエネルギーは必要としない。



佃煮をごちそうになる。小魚も入っている。手前のピクルスは百合の花芽。生けられた花が自然との一体感を感じる。


ツルムラサキのお焼きは自然な甘さだ。よもぎもちやお菓子は自分のおばあちゃんが手作りしてくれたので、それに近い懐かしい味だ。

どんどん大地に近くなる。

私は現代医療の素晴らしさを知っている。医療の進歩で23年前は不治とされた病気が、今は治して当然に変わった。一方、社会の病か?とも思われる、生活習慣病やうつ病などに手をこまねいている現状。

だからこういった大地に近い生活を治療として一つの選択肢にしてほしい。私の目標は現代医療を自然の中に癒合させること。心地よい、を体が感じれば、それを再現したくなる。そこに生活習慣改善のヒントがある。診察室の口頭指示だけで相手の生活を変えることができようか?私は自信ない。


翌日の講演会場に山先生はマイ・ブランドのお茶をお土産に持ってきてくれた。その場所は民族資料館。



北見けんいち氏のモノクロ写真は島の様子を生き生きと捉えていた。


そして与論十五夜踊り(豊年祭)の衣装や奉納する食事が展示されている。

天災、疫病、あらそい・・・なにかしらの不安や恐怖を感じながら、なにかにそれを転嫁したり祈ったりすることは人類の普遍的な行いである。祭りは単なるイベントではない。

祈り・・・大震災、わたしは何度祈っただろう・・

自然に対する畏敬の念をわすれてはならない。科学は自然に太刀打ちできなかったではないか・・・。人間は「平和に生きていきたい・・」という祈りを謙虚に抱こう。

大地がはぐくむ食をこうして毎日楽しむ生活、そこに社会の病への処方箋がある。

ラベル: ,